故・劉備の意思を継ぎ、孔明は後主・劉禅を戴いて、天下統一・漢朝再興を目指します。所が蜀の背後には南蛮と呼ばれる地域があり(今の中国雲南省から ベトナム・ミャンマー北部)、しばしば国境を侵していました。そこで背後の憂いを無くし魏に向き合うため、これを平定すべく孔明は軍を興します。以後の反乱を押さえるため、心服させる必要があると考えた孔明は、南蛮王・孟獲を七度捕えて七度解き放ちます。これには流石に孟獲も参り、以後は国境を侵さず永い友好を誓います。蜀軍は慣れぬ気候や相手方の戦法に苦しみますが、孔明の事前準備が功を奏し、ついに目的を達します。 
さけぬねったい くんしゆき もうとらえては それをせめ ほむよにかすの まわりみち へいやおひえる あふころな
 
いよいよ孔明は劉備の悲願であった漢朝再興を実現すべく、まず魏の討伐を決意します。後主・劉禅に水師(出兵)を奏上して認可されます。ただ孔明は劉備と比べて余りにも凡庸な劉禅を戴き、魏を討伐することの困難を思うと暗然となります。
かって蜀を支えた関羽・張飛など五虎将と呼ばれた将軍達がいましたが、今では最も若かった趙雲のみが残っています。趙雲は孔明の心中を察して、静かに見守ります。
 
孔明が劉禅に提出した「水師の表」は古来、名文中の名文と讃えられています。この水師の表を読んで、「泣かざる者は男子に非ず」とまで言われ、二千年後の今日もなお、我々を感動させます。(原文は残っておりませんが、幸いな事に後世に南宋の岳飛という武将が石板に残してくれたおかげで、我々もこの名文を目にする事ができます)
さて当時の国内の情勢ですが、魏は梟雄と呼ばれた曹操は既になく、子の曹丕を経て孫の曹叡が魏王となっています。呉は孫権が健在で、劉備を打ち破った名将・陸遜が軍を統括をしています。両国とも蜀を凌ぐ勢いで、孔明はまず呉と和睦を結び、魏を討伐する計画をたてます。
すいしをせんに たてまつる こうめいひとり ああねそら きにいくみちや はなもふえ ほむろのさけよ われおえぬ   
 
 
(コーヒータイム)
 
いよいよ数度に及ぶ北伐の始まりですが、ここで我が蜀軍の30万の陣容を見てみたいと思います。
おりしもYOU TUBEでは(令和5年5月)、ロシアとウクライナの戦闘状況が、最新情報と称してすごい数の投稿がなされています。私は応援すべき方を応援していますが、戦況に一喜一憂しております。
それはともかく、かって蜀の五虎将と呼ばれた関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の内、残っているのは趙雲のみとなっています。そのほか関羽の子の関興・張飛の子の張苞が、それぞれ父の名に恥じない活躍を見せています。
そして北伐が始まってから、最初は魏に属していた姜維という青年を味方に加えます。姜維は知略に秀でた武人で、一度は孔明の作戦を見破ります。その後孔明に心服して、孔明は軍師としての後継者と期待をします。
魏延はかって仕えていた主君を裏切って劉備に下った武将ですが、孔明に心服する事は無く、献策が採用されないなど不満を募らせます。しかし孔明としては関羽・張飛亡き後、趙雲は老いて、蜀軍の中でも抜群の武勇を誇る魏延を用いざるを得ない状況です。魏延は孔明の没後、早速蜀を裏切ります。
最後は次の歌の馬謖ですが、五人兄弟で皆揃って優秀でその末弟です。長兄は同じく蜀に仕える馬良ですが、兄弟中最も優れていると言われ、眉毛が白かったことから「白眉」という言葉を今に残します。
 
蜀の国は今の四川省を含む地域で、中原に出るためには有名な「蜀の桟道」を通らねばなりません。そのため守るに易く、攻めるのは兵糧の補給もままなりません。この道の険しさは古来より多くの詩人からも謳われ、日本でも「箱根八里」などに出てきます。その兵站補給の為に孔明は「流馬・木牛」なるものを発明したとなっていますが、それがどのような物か分かっていません。いずれにしてもこの兵站補給のためと、凡庸な主君・劉禅のために、孔明は苦戦を続けることになります。
  
蜀の国を出た孔明ですが、街亭という山間の小さな土地が彼我の要衝とみて、そこを守る武将を選ぼうとします。そこへ馬謖が名乗りをあげ、危ぶんだ孔明に誓詞を出すとまで言うので、守備を命じます。ところが現地に赴いた馬謖は、孔明の指示を守らず山上に布陣します。案の定押し寄せた魏軍に水を断たれ、やむなく駆け降りましたが、待ち構えた魏軍に大敗し、街亭を奪われてしまいます。孔明の指示による後詰のおかげで命だけは助かり、孔明の元に戻ります。孔明は馬謖の才を惜しみますが、軍の規律の為に斬首を命じます。かっては自分の後継者にもなりうると考えていただけに、無念さで一杯です。そしてかって劉備から「馬謖は優秀だが、自分を過信する事が有るので、大事な局面では用いないほうが良い」と忠告されていたのに、誤ってしまった自分を責めます。 
 りつそまもらす わかちのみ こうめいないて まをきるに ひろえんよふせ たえぬむね とおくほしゆれ あさやけへ
    
魏国に進出した蜀軍を迎え撃ったのは、孔明に対抗するにはこの人をおいて他に無しといわれた司馬懿仲達です。仲達は元は文官でしたが、その素晴らしい軍略・才能を認められ、魏軍の総司令官となっております。しかし実際に戦闘が始まると孔明の敵では無く孔明の軍略に翻弄され、繰り返し敗戦を余儀なくされます。一時は追い詰められて自身の生命さえ危うくなります。孔明と自身の才能の差を悟った仲達は、蜀軍の兵糧不足を狙い、持久戦を選ばざるを得ません。その為将校達の激しい突き上げを食らった仲達は、魏皇帝に戦闘の許可を求めます。総司令官がいちいち戦闘の許可を得るなどむろん仲達の見え透いた苦肉の策で、それを察した魏皇帝は、戦闘不許可の通達を出します。
「達」・・司馬懿仲達
うめいたつの ちえわらい おそれにきくん はしかさね みへやをあひて さけなえぬ ふせろゆるすと まもりほむ
 
戦えば負けると分かっているので、仲達は長期戦を目指します。孔明は一向に戦おうとしない仲達に業を煮やし、仲達に女服を贈り挑発しますが、仲達は挑発に乗りません。孔明の焦りは自身の年齢による健康状態と蜀軍の弱点・兵站補給に有ります。その上、数度の北伐の内には魏の要衝・長安の目前まで迫りますが、突然の蜀帝の帰還命令が届きます。勅命なのでやむを得ず成都に引き返しますが、愚かにも劉禅が宦官に「孔明に謀反の噂があり」と吹き込まれ、確かめるため呼び戻したのです。やはり孔明が心配した劉禅の資質の問題が浮上します。
さて最後の戦いの場・五丈原ですが、孔明もこの時既に54歳で長年の軍務・政務で激しく消耗していました。常に全力で取り組み、一切の妥協をしなかったため、肉体の限界を迎えました。この時既に趙雲は病死しています。
ほしそらもさえ みねをあき ひろはのすむち かせゆれぬ こうめいよわり やまいえぬ にけるたつへと おんなふく
 
自分の死期を悟った孔明ですが、姜維の強い勧めで延命の祈祷を始めます。七日間絶食をして祈祷を行い燈明を守りきれば、更に十年の寿命が天から与えられます。そして祈祷を始めてから七日目の事です。孔明同様天文に詳しい仲達は、孔明の星の運気が衰えたのを訝り様子を探る為、兵を出してみます。それを察した魏延が慌てて孔明の祈祷所に入って来ます。そして慌てていた魏延は主灯を蹴り倒してしまいます。それを見た姜維は怒りのあまり魏延を斬ろうとしますが、孔明は運命であるとして姜維を押し止めます。そして遂に千年に一人の大軍師・諸葛亮孔明は、五丈原で息を引き取ります。
時に建興12年(234年)秋8月23日の事です。
あきかせおねを すさふかせ いえぬやまいに ゆめもはつ こしようけんへ ほくとちり われのなみたて ひえるむろ
  
天文を観測中、将星が落ちるのを見た仲達は、孔明の死を確信します。五丈原から撤退を始めた蜀軍を、仲達は追撃を始めます。ところが四輪車に乗った孔明が姿を現すと仲達は、又しても孔明の策にはまったかと、慌てて軍を引き返します。実は四輪車に乗った孔明は木像で、孔明は死の際に退却の方法まで残していたのです。これにより後世に「死せる孔明、生きる仲達を走らす」ということわざが出来ました。 そしてやはり孔明の予測どうり、早速魏延が裏切ります。しかしこれも孔明の指示どうりの手筈で、魏延を打ち取ります。そうして姜維達蜀軍は被害を受けながらも、無事に蜀の都・成都へ帰る事が出来ました。
こうめいゆくは むねせまる しんてもたつよ おそれにけ あさのふすちへ ほろやきえ みなかえりぬを ひとわらい
 
諸葛亮孔明は27歳の時に劉備の三顧の礼に応えて草庵を出ると、54歳で五丈原に没するまで、劉備と蜀の国の為にに尽くします。孔明無くして蜀の国の建国はあり得ませんでした。その人格は高潔でその清雅な容姿や才と共に多くの人に慕われます。また、蜀の国の丞相(総理大臣に相当)を務めながら私欲は皆無で、没後は僅かな財産しか残っていなかったと伝えられます。
この希代の大軍師の死を惜しんで、後世の詩人たちは多くの弔詩を作っています。私でもその名を知っている杜甫・白楽天などであり、日本の土井晩翠の「丞相病あつかりき」なども有名です。なお、孔明は「奇略よりも正攻法を好んだ」とか「政治の方が優れていた」とかの言い伝えも有るようです。二千年も前のことなので、確かな事は分かりませんが、二千年後の我々をわくわくさせてくれる存在であることは間違い有りません。
さいくんをぬき つねにえむ やまいえてふす みそらへめ ひよおちたころ われもはせ かりゆうあけの ほしとなる
  
 孔明の死と共に私の三国志は終わりますが、ここでその後の三国について述べておきます。まず蜀の国ですが、孔明に後を託された姜維が孔明の意思を継いで引き続き北伐を目指します。渋る後主・劉禅や長老たちを説得して数度の北伐を行いますが上手く行きません。最後は戦死して逆に魏が成都を襲います。劉禅は一戦も行わず降伏して(263年)、後は身分を保証され安穏に暮らします。これでは例え孔明が長生きをして魏を統合しても、長くは続かなかったでしょう。
曹操から始まった魏はその後司馬懿仲達の一族にとって代わられ晋国となります(265年)。
晋の時代に孫権の子孫が治めていた呉国が滅ぼされ(280年)、ここに三国が統一されます。その後南北朝時代を経て、やっと私達も使節派遣で馴染のある隋・唐の時代になります。
ゆめなきそらを へやはひえ いまおちつけず さんこくし ようものかたり いろあせぬ みてむねふるえ ほれとわに
  
  [あとがき]
 今、「いろは歌三国志」38篇前後2篇計40篇の掲載を終えて、一丁前に大河ドラマが終わったプロデューサーの気分を味わっています(笑)。
 思えば一年程前(多分)、三国志の名場面をいろは歌にしようと思い立ちましたが、「あらすじのあらすじ」を余り間違えては・・との思いや、他作品との掲載バランスも有り長い期間となりました。
 実はいろは歌40篇そのものは思いたってから、二週間程で出来上がりました。
 この時は何度も読んで親しんだ場面とはいえ、私はやはり天才かも知れんと思いましたが・・(笑)。
 諸葛孔明が「千年に一人の大軍師」というのは殆ど慣用句ですが、最近「百年に一人の美少女」というフレーズをネットで見て「それはそれは・・」と思いその美少女と言うのを見てみましたが、どうもその辺のお嬢さんと余り変わりないように見えました。
 梅沢富美男さんも「三百年に一人の役者」と言ってますし、現代は言ったもん勝ちの時代の様ですね(笑)。
 大河ドラマ終了の気分と言いましたが、NHKの大河ドラマも種が尽きたようで、私には見たような場面ばかりに思えます。
 私は以前からまぁ国民感情は有るだろうけれども、三国志を大河ドラマにして貰いたいと思っていました。
 かって川本喜八郎・作による名作人形劇も放送されましたし、私は勝手に孔明には加藤剛さん(故人)が適役ではないかと思っていました。
 
 
 それから私は「いろは歌」は全体の底上げの為、気になる所や違和感を感じる所は随時推敲を加えています。
 しかし、「いろは歌三国志」は作った時の勢いを尊重して、このままにしておこうと思います。
 長い間少しマニアックな「いろは歌三国志」にお付き合い頂いた皆さまには、改めてお礼を申し上げます。
 有難うございました。
 
 
いろは歌三国志終了