曹操は敗走し都に逃げ帰りました。後は放棄された領地を、今度は劉備と呉国の奪い合いになります。呉の指揮官・周瑜は荊州を始め各地に進出しますが、悉く孔明に翻弄され土地を奪われます。そして周瑜は失意の為、病を得て三十六歳の若さで病没します。
さて以前、孔明の師・水鏡先生は「龍か雛を得た者は天下を望めるであろう」と言われました。その雛こと龐統(鳳雛)が孔明が新領地の巡察中に劉備のもとを訪れました。すると劉備程の人物が鳳雛の凡庸な風貌にその才能を見誤り、田舎の県令に任命してしまいます。巡察を終えて帰ってきた孔明は、それを聞いて驚き「龐統の才は我に倍するもの」と劉備に伝えます。驚いた劉備は自身の不明を深く恥じて龐統を呼び戻し、即刻副軍師に任命します。
りゆうかひなを えろとしは わらいふれぬよ てんのみち おねへこたまよ あきやつけ ほむにめいえる さくもせす
 
龍と雛を得た劉備は、予てから孔明が主張する「天下三分の計」で、天下統一・漢朝再興を目指すべきですが、蜀の領主・劉璋が同族のため、信義を重んじる劉備は進軍をためらいます。ですが孔明と龐統の説得に応じ、要衝の荊州を孔明に任せ、龐統を軍師として蜀の都成都を目指します。ところが連戦連勝の進軍中の朝、龐統の乗る馬が出発を嫌がります。見かねた劉備は自分の白馬を龐統に譲ります。そして二手に分かれ進軍中、龐統は胸騒ぎを覚え案内人に「ここは何という所か」と問うと、案内人は落鳳坡と答えます。おのが道号は鳳雛ですので、余りの不吉さに引き返そうとします。その時に林に潜んでいた蜀軍の一本の矢が龐統の胸を貫きます。蜀軍兵士は劉備の白馬をみて、馬上の人物を劉備と思い込んだのです。
えんろよけわし ぬまちふみ めさすせいとへ いきあかる ひなのおりたつ らくほうは やをむねにこえ そてもゆれ
 
関羽達と共に荊州を守る孔明でしたが、ある夜天文を観測中に自軍の将星が落ちるのを見ます。孔明は龐統の身に変事が起きた事を直感しますが、周囲には「悪い知らせが届くかも知れぬ」と告げるに留めます。
龐統と共に成都を目指して進攻中の劉備は、龐統の死を知り大いに嘆き悲しみ落胆します。孔明と共に自らの片腕と頼む軍師を失ったのです。孔明は直ちに関羽に荊州の守りを命じ、自らは危機に陥った劉備を助けるべく、蜀の国境に赴きます。
龐統 (鳳雛)
こうめいそらの ほしをみて かおはつちいろ ひなゆきぬ けんとくたえす へやふせり むねさまよえる あわれにも
  
 鳳雛こと龐統は水鏡先生門下で、孔明と共に臥龍・鳳雛と並び称された逸材です。ただ孔明が人を魅了する秀貌だったのに比べ、龐統は一見凡庸な容姿でした。そのため孔明の留守中に劉備を訪れますが、劉備程の人物が容姿に惑わされ、田舎の県令(当時の県は郡の下)に任じてしまいます。ただ曹操や周瑜はさすがに人物眼が有り、かって何度も龐統に随身を要請しますが、何故か龐統は断り続けます。県令に赴任した龐統は、昼間から酒を飲んで寝てばかりいるので公事が滞り、劉備の元へ住民の訴えが届きます。劉備は激怒した張飛を視察使として遣わしますが、龐統は山積した公事処理など一日有れば十分と言い放ちます。翌日その言葉通りに全て理非曲直を明らかにして裁き、寸毫の過ちも有りません。その見事な裁きは、張飛をして唖然とさせるばかりです。張飛は主君の不明を我が恥とばかり報告し、龐統はすぐ劉備の元へ呼び戻され副軍師に任命されます。しかし軍師としての活躍期間は短く、三十六歳の若さで亡くなるのはさぞ無念だったろうと思います。
さやけきめもち かとうせい ふわりひなゆく あおそらへ すむこえみねに いろはえぬ てんたれをまつ ほしのよる
 
 蜀の国は「箱根八里」にも歌われるように、山々に囲まれた天然の要害です、現在の四川省を中心とした地域です。孔明の指揮のもと劉備軍は首都の成都に到り、既に人心の離れていた領主の劉璋を移封して、新たに劉備が国主となります。ついに「天下三分の計」をなし、ここを足掛かりに天下統一・漢朝再興を目指します。関羽・張飛・趙雲に新たに黄忠・馬超等の人材も加わり、孔明も卓越した政治家としての能力を発揮して、蜀の国は魏・呉の三分の一に満たない国力ながら繁栄し、国境を死守します。
その後も三国の戦いは続き、関羽も張飛も既に五十の坂を超えながら、老いを知らずに戦い続けます。戦い続ける事だけが彼らの人生であり宿命でした。そして劉備も曹操も孫権も多くの股肱を失っていきます。
しよくやけんろ ていりつの へいわなはるに えみあふれ ゆうそらをほめ ひとまねき せこすむおかも さちたえぬ
 
劉備から荊州を預かっていた関羽ですが、不世出の英雄も衰え、遂に予てから荊州を狙っていた呉の呂蒙の計にかかり、58歳でその生涯を終えます。
蜀の怒りを恐れた呉は、その矛先をそらそうと関羽の首を魏に送ります。
所が呉の魂胆を察した魏は逆手に取り、関羽を国葬にします。この辺りはやはり魏の方が外交が巧といえます。
関羽雲長は知勇を備えた真の武将でした。劉備に忠誠を尽くし、又誇り高く呉王が懐柔の為関羽の娘を王宮に迎えようとしたところ、「虎の娘を犬コロにやれるか !」と言ったといいます。 死後もその人格を慕う人が多く、日本を始め各地に霊廟が建てられ、神様として崇められています。 
つちをわすれぬ たみもふえ ろりよねらいて こはおそい せきとめにのる かんうゆく なまえほむへや あけひさし
 魯・・・魯粛(実際は既に死去)
  呂・・・呂蒙
  赤兎馬・・・呂布の名馬の孫馬
  
関羽の死を知った劉備は、激しく呉を憎み、まだその時期では無いという孔明を始め側近の意見を押し切って、呉への進攻を計画します。
孔明も最後は劉備の心情を思い、出兵やむなしとします。
張飛はもとより早く復讐戦を始めろと矢の催促です。いよいよ計画が決定すると、張飛ははやる余り部下へ無理な戦争準備を命じます。余りに横暴な命令に、張飛の罰を恐れた部下二人が、夜中泥酔している張飛を刺殺します。
二人は張飛の首を持って、呉に逃げ込みます。義兄弟の関羽に続いて張飛を失った劉備は深く悲しみます。
張飛は武勇は関羽にも劣らないほどの豪傑でしたが、短気で粗暴であり周囲の信頼は得られませんでした。
劉備はいよいよ七十五万という大軍を率いて、呉へ進攻を始めます。
めをみすおそれ へいたえて ほこのまえあく むしんなり ふかやねにもつ わるいさけ ちようひゆきぬ はせろとら 
 
呉へ進攻を始めた劉備ですが、軍師の鳳雛は既になく、孔明が軍に参加すれば、すかさず魏が攻め込んでくるのは明らかで、劉備自らが進攻を指揮せざるを得ません。
当初は連戦連勝ですが、蜀軍の布陣図を送られた孔明は、長く伸びきった戦線を見て、壊滅の恐れを抱きます。
その予感通り呉の若き知将・陸遜の火攻により壊滅的な敗北を喫します。
劉備もまた老いて、かっての智謀を失っていたのです。
大敗した劉備は命からがら、辛うじて白帝城に逃げ込みます。
陸遜もまた、孔明の智謀を恐れ、これ以上の追撃を諦めます。
かんのあたうち せめるこに みなまけおわれ ほそいつえ ともをえぬひよ ふらりゆき やねすさむしろ はくていへ
 
白帝城に逃げ込んだ劉備ですが、すぐに病を得て自分の死期を悟ります。
成都から孔明が遺児・劉禅を連れて迎えに来ますが、劉備にはもう成都へ帰る気力も有りません。
死に際して劉備は孔明に「軍師には劉禅が補佐するに値せぬ非才とみてとったならば、その時は自ら成都の主となるように・・・」伝えます。
それを聞いた孔明の双眸はみるみる潤み、「太子を玉座につけお護りするのが私の使命ですが、今はおのれにその力があるか否か、その恐れのみであります」と答えます。それを聞いた劉備は涙ぐみ、劉禅に「これからは軍師を父と思え」と命じます。
そして、「関羽と張飛が迎えに来た」の言葉を残し、一代の英傑・劉備はこの世を去ります。
けんとくゆきぬ そらへはせ ひのちやさえて つねにわを ほほろすむかえ いしまもり なみたあふれる こうめいよ
  
劉備は漢朝再興こそなりませんでしたが、最後には蜀の皇帝として、その生涯を終わりました。
類いまれな人格と信望で、多くの有能な部下にも恵まれました。
関羽・張飛・趙雲など当代並ぶ者の無い豪傑を抱えていました。
ただ、それなのに孔明と出会うまでは、地方の小領主に過ぎず、時には大勢力から逃げ回っておりました。
これは戦国の世を勝ち上がる為には、戦闘力もさることながら、戦術・戦略・大局観がより重要なことを示しています。
劉備がその点で抜きんでており、かつ政治力まで備えた孔明を得たことは、劉備自身が備えた信義を重んじる人格的魅力でしょう。
ともあれ劉備が一代の英雄であり、三国志の主人公の一人であることに違いありません。
えみわすれぬひ あきをほめ なおちこまもる そらへゆく ろにさけふえ て よむうたは しんせいかりね つゆのやと
 
 
いろは歌三国志 4 (最終章) へ続く