「春の雨音」矢城 道子
 
 
         矢城道子さんは北九州市在住の女流詩人で
         色々な活動をされています。
         今回は著書「春の雨音」から本人了承の上
         掲載させて頂いております。
     
 
    春の雨音
              矢城 道子
   春の雨には
   音がある
   春の雨だけにしかない
   音がある
   青葉にパタパタ落ちる
   音がある
 
   春の雨は
   のんびりしている
   地面をしっとり潤わせるだけの
   大らかさがある
 
   若葉も
   れんげも
   たんぽぽも
   みんな春の雨を
   受けとめている
   私も一緒に
   受けとめている
 
 
 
 
 
     固執するようなものは何もない
 
   固執するようなものは何もない
   今も昔も
   そうして時が経っている
   大自然の中
   銀杏の葉が散るごとき
   私の生と死
   時が経っている
   今も昔も
   固執するようなものは何もない
 
 
 
 
 
   
    青
 
   その軽快なさえずりを
   私の耳は覚えていて
   遠くからでも一目瞭然
 
   翡翠 (カワセミ) の青は
   私の眼から心を射抜き
   欲すれど欲すれど
   到達することのできない
   遥か彼方の青となる
 
   いつの日かそこへたどり着き
   その青に触れてみたい
 
   とてつもなく遠い道すがら
   翡翠の青が
   張りつめた初冬の川面を
   突き破った
 
 
 
 
  
 
 
 
   砂時計が返されて
 
   砂時計が返されて
   また朝が来た
   昨日はどこへ行ってしまったのだろう
   跡形もなく消えている
 
   一度きりの時が
   さらさらとこぼれてゆく
 
   さらさらさらさら
   さらさらさらさら
 
   記さなければ
   何も残らない
   消えてしまって
   それっきり
 
   さらさらさらさら
   さらさらさらさら
 
   日記を書く人あり
   日記を書くように
   絵を描く人あり
   詠う人あり
   木を彫る人あり
   土捏(こ)ねる人あり
   鉄打つ人あり
   はた織る人あり
   はた織るように
   詩を書く人あり
   みんな残したいのだ
   こぼれゆく今を
   自分を刻みたいのだ
 
   この世はまるで 
   生きた証を
   残そうとするものたちの
   実験現場のようだ
 
   砂時計の横で
   木の葉が色づき
   舞っている
 
   春夏秋冬
   昼と夜
   光と影を纏(まと)いながら 
   回る地球は
   巨大な実験台
 
   私たちは実験をくり返しながら
   常に
   実験され続けている
 
 
 
 
 
 
  心に蠢くものがある限り
 
  これといった才能もなく
  普通という殻に入ったままになりそうで
  それでいて
  時として志が燃えてきて
  それでいて
  何もできなくて
  小さな小さな人間私
  けれど軽蔑したくない
  心の奥底に
  蠢くものがある限り
  第三者に対する慈愛
  それを私の中の私にも注ごう
 
  ちっぽけなものは限りなく
  偉大なるものは
  少なすぎるではないか
  もっとも偉大なるものを
  子らの中に見出し
  少しずつ
  つまみ食いする日々
 
  心の奥底に
  蠢くものがある限り
  どんなにちっぽけでも
  軽蔑したくない
  心は凛々と鳴らしていたい
 
 
 
 
 
 
 
   春
 
 春になると
 体内に収まりきれなくなった感情が
 一気に飛び出してきて
 大気中に充満するのです。
 
 感情の乱れの中
 モンシロチョウは
 真っ直ぐ飛べなくて
 ゆらゆら ゆらゆら
 
 それまで押さえつけられて感情は
 美しいものに憧れて
 桜の花びらと花びら
 おしべとめしべの間に隠れて
 花の寿命を縮めます
 
 ほどよい風が吹こうものなら
 感情たちは
 思いっきり自由に
 空が飛べるのです
 白いベールをかぶって
 光の精と戯れながら
 
 私などは
 いやに軽くなってしまって
 良きも悪しきも
 ありとあらゆる感情を
 蓄え始めているのです
 この次の春まで
 
 
 
 
 
 
   紫陽花
 
 雨に濡れ
 よろこんでいる紫陽花を切るのは
 忍びなかった
 ためらったあと家の中へ
 けれどまだ立っていた
 色づき始めた花のもと
 ストローのような茎に
 鋏を入れる
 ぱちんと音がして
 それは大地から解かれ
 器の中へ
 六月の雨の朝
 私は一本の紫陽花に
 鋏を入れた
 やがてやって来る
 ひとりの友のために