軍師に待望の孔明を得た劉備は、寝食を共にする程、孔明にほれ込みます。
それが関羽や張飛は面白く有りません。やがて曹操軍(魏軍)が押し寄せた時も、孔明の采配に不満を持ちますが、孔明が鮮やかな戦術で敵を撃退すると一転、心服するようになります。この敗報を聞いた曹操は、先に都に呼び寄せた徐庶(九を参照)に、徐庶と孔明の才を問いますが、徐庶は「自分の才が蛍の光なら、孔明のそれは満月の明るさです」と答えます。これを聞いた曹操は、早い方が良いと、荊州・呉国の征服を決意します。
ひへやりそろえ せにむけぬ こうめいてきの さくわらい ちはみなあたえ よるをまつ かんふねおとし ゆれもせす
  
 曹操はまず荊州を攻めようと、百万とも豪語する軍勢で劉備達を襲います。
孔明は巧妙な策を用いて、曹操軍に大損害を与えます。そんな中で常山の趙雲子龍の登場です。子龍は誠実な人柄で若く槍の使い手ですが、武は関羽・張飛に劣らず、柴錬三国志では関羽の教え子となっています。ただ戦いの中で夢中になり、守護を命じられた劉備夫人と長子(後の劉禅)を見失います。そこで単騎敵陣の中を駆け巡り、劉禅を救い出しますが、劉備夫人は足手まといを恐れて自死します。敵陣を単騎で駆け抜ける子龍を惜しんで、曹操は生け捕りを命じます。その幸運もあって子龍は胸に劉禅を抱き、張飛の居る長坂橋にたどり着きます。
むてきしりゆう ふねをえす ほめろけんとく あこまもる さわらぬかみの せにたつひ いやよそれおち へいはなえ 
 
 玄徳の子を抱え、子龍は単騎敵陣を突破して、張飛の待つ長坂橋までたどり着きます。張飛は子龍を後ろへ逃がし、馬上姿で一人長坂橋の袂で曹操軍を待ち受けます。しかし張飛の豪勇は天下に鳴り響いており、曹操軍は馬も怯えて前へ進めません。業を煮やした張飛が蛮声を張り上げ橋の中央までダダッと進むと、曹操軍数十万の軍勢(製作の都合上1万騎にしています・笑)がどぅと下がります。中には落馬したり、今でいう心臓麻痺を起こしたり大混乱をきたします。まさに燕人・張飛の独り舞台です。しかし張飛が橋を焼き払ったため、後の策の無いことがバレてしまい、曹操は仮橋を作り追いかけます。曹操軍百万対劉備軍一万では、如何に孔明といえども戦にはなりません。そこで一時劉備達は夏口という地へ避難します。しかし孔明は生きのびるためには、一方の雄・呉国を戦いに引きずりこむしか無いと思い、単身呉へ渡る決意をします。
せにたつひほえ へいなえぬ あわてさかるよ いちまんき そらうすくもり めはおねを ゆみやとふころ けんのむれ
 
 孔明は戦況を偵察に来た呉の重臣・魯粛と共に呉国に渡ります。呉国では戦争に反対する文官たちが、孔明へ激しい論争を挑みます。これを悉く退けた孔明は、呉王・孫権や総司令官・周瑜を巧みに挑発して、呉国に開戦を決意させます。周瑜は後漢随一といわれた端正な容貌と、優れた才を有しておりましたが、後日「天はどうして同時代に孔明を生ませたか」と嘆く事になります。しかしこれは後日の事で、この時は孔明・周瑜・魯粛は孔明が宿舎としてしている小舟で、共通の敵・曹操に対する策を練ります。因みにこの時、呉国には孔明の兄・諸葛瑾が重臣として仕えています。
くんしさつそう ひとりこへ もめるかいきよ みなにらむ まけぬわせすの ろゆはほえ ふねておちあい やれをえた
  
 魏との決戦が迫り、周瑜は孔明と作戦を協議しますが、改めて孔明の智謀に脅威を覚え、将来呉国の為ならずと抹殺を目論みます。そこで軍議の席上で「十万の矢を用意願えぬか」と無理難題を吹っ掛けます。所が孔明は平然として十日の期限を三日で良いと答えます。軍議の席ですから違反すれば即死罪です。孔明は魯粛に頼み青い幔幕と藁束を一杯に積み込んだ二十艘の船を用意させます。三日目の朝、孔明は魯粛を連れて朝霧に乗じて魏の陣地に近づきます。朝霧の中ドラの音に驚いた水戦に慣れぬ魏軍は、慌てて矢をイナゴの様に射掛けます。頃合いを見て呉軍陣地に引き上げた船には、十万を超える矢が蓑虫の様に刺さって居りました。孔明は若き頃各地を放浪し、土地の気象を研究して、この日の朝霧を予測していたのです。この孔明の意外の計には周瑜以下言葉も有りません。 
ほふねあさころ くんしのり けむるたいかを よめぬちえ きへいおそれて すわとはせ まえにもならひ ゆみやうつ
 
 改めて周瑜と孔明は協議し、魏の大軍には火計しか無い事では一致しますが、無数の魏の船の一艘に火を放っても効果は有りません。そこで孔明は同じ水鏡先生門下の龐統士元に連環の計を頼みます。孔明と龐統は水鏡先生門下で臥竜・鳳雛と称された二偉才です。孔明の頼みを龐統は快く引き受け、単身魏の陣地に渡ります。龐統の名声やその才能を知る曹操は、軍師に迎えようと厚くもてなします。また水戦に慣れぬ魏兵が船酔いで多くの病人が出ているのでないかとの問いに驚きます。龐統は船の揺れを抑える為に、大きな鎖で船を繋ぎ、その上に板を渡せは揺れは収まるとの計を授けます。曹操は大いに喜び、呉国の将の寝返りを促すと言い、呉に帰る龐統を見送ります。 
ひなきへわたり むかえあい ふねをしゆすの さくやつけ そうよろこんて ちえほめぬ おれいにとはせ みまもらる
 
周瑜は火計では孔明と一致したものの、火計には必ず風を利用しなければなりません。しかしこの季節(冬)の長江には、常時西北の風が吹いており、火計を用いれば呉軍陣地は大火災となってしまいます。その事に気づいた周瑜はとうとう寝込んでしまいます。見舞いに訪れた孔明は、周瑜の胸の内を言い当て自分は辰巳(東南)風を吹かせる事が出来ると告げます。もとより周瑜はそんな事は信じられませんが、藁にもすがる思いで、孔明の指示どうり南屏山の頂上に「七星壇」という祈祷所を設けます。そこで孔明は二昼夜祈祷をつづけます。実は孔明も自信が有る訳ではないので、必死に星に祈ります。孔明が一生一代の大賭博です。
たつみかせふけ てんちひえ こうめいほしに いのるおね ろゆはきをもむ わすれえぬ やまとりなくよ そらへあさ
  
実は孔明は戦術上の必要から各地の気象を研究しており、地元漁師からこの時期でも数日間は「変わり風」が吹く事を聞きだしていたのです。周瑜は見事辰巳風が吹き始めたのをみて驚き、恐れてすぐに孔明を殺害すべく軍勢を差し向けます。もとより孔明は周瑜の考えは分かっていたので、迎えに来た趙雲の船に乗って劉備の元へ戻ります。歯噛みをした周瑜ですが、気を取り直しすぐに魏軍へ火を点けた船を突っ込ませます。龐統の連環の計にかかっていた魏軍は、たちまち火だるまになります。世に名高い「赤壁の戦い」が始まります。燃える火の勢いは凄まじく、岸壁が赤く見えたという事でこの名前が付きました。 
きのやぬすみて あゆむあさ くんしよこわれ かせをそら いえもなめたひ おちるとり まえにはほふね へいうつろ
 
呉軍の放った火は東南風に乗って、魏軍の陣地を焼き払います。さしもの曹操もどうすることもできず、ただ魏の都・許都を目指して、僅か数百騎の部下と共に逃げ延びようとします。一方劉備の陣営では孔明が、曹操の逃走経路をピタリと指し示し、趙雲と張飛に兵の半分を打ち取るように命令します。孔明は思惑があって関羽には何も命じませんでしたが、関羽のたっての願いを受け入れ、最後に曹操を打ち取るように厳命します。
 
きくんひたるま あさころは ふねいえやけぬ みもめらと へいのむれすて ちえおわり そうなにをほゆ かせつよし
 
必死に逃げる曹操ですが、趙雲と張飛の手勢に襲われ、ぼろぼろになって逃げ続けます。そして最後に関羽が現れこれまでと覚悟を決めますが、側近に勧められ関羽に命乞いをします。かって関羽は劉備と離れ離れになり、劉備夫人と共に曹操の手厚いもてなしを受けています。しかも帰るにあたり五つの関を破っていますが、曹操はそのことも許してくれました。その恩義を思うと義に厚い関羽はどうしても曹操を打ち取る事が出来ずに、将兵と共に見逃がします。帰ってきた関羽から報告を受けた孔明は、関羽に死罪を申し渡しますが、劉備のとりなしで後日の功で償うことになりました。関羽はただただ涙あるのみです。孔明はこのことは見通しており、劉備に「天文によれば曹操の命運はまだ尽きておらず、関羽の曹操に対する恩義の重さを取り除いたのみです」と告げます。
はらもへるそう たつまえよ ひせんみとめて いのちこい むかしわすれぬ なさけあり やふをいくほろ おねにきえ
  
 いろは歌三国志 3 へ続く